社長ブログ 社長が日々考えていることを思いついたときに・・・

想う、感じる、伝える。??

?エピローグ?
  
近年、感性や五感の研究、またその産業界や情報伝達手段への応用の試みが盛んになっている。
 
…ハイビジョンで全天周に映しだされるアルプスの風景。グリンデルワルトのホテルのバルコニーを模したウッドチェアに座れば、温度も湿度も現地の初夏と同等にコントロールされた空気の中を、時折、万年雪の表面を滑り落ちた爽涼な風が通り抜ける。山麓の牧草地帯には白い小さな花が無数に咲き誇り、派手なウエアーのハイカーが行き交う。無心に草を食む牛たちのけだるいカウベルの音を聞きながら、少し強めに冷やした白ワインでのどを潤す…。
  
これぐらいのバーチャルリアリティーを体験することは、今の技術をもってすれば何の問題もない。東京に居ながらにして、五感のすべてで「スイスアルプスの気分」を享受することができる。
  
情報量という意味合いで、これとは対極にあるのが俳句ではないだろうか。俳句はわずか17の音で作者の感性を表現し、伝える。俳句の世界には「客観写生」と言う考え方があるそうだ。
   
「…即ち句の表面は簡単な叙景叙事であるが、味わえば味わうほど内部に複雑な光景なり情景なりが満たされていると言うような句がいいと思うのである…」
  
高浜虚子が弟子に送った書簡の一節とのことだが、俳句の限られた言葉の数では、主観を述べる余地がほとんどないため、事象をできるだけ客観的に表現して、その裏に潜ませた主観を読み取ってもらうという考え方だ。もちろん、客観的といってもありのままを描写するわけではない。そこには加除やデフォルメといったある種の嘘もあるわけで、作者の主観が最も効果的に表現できる17の音が巧みに編まれる。
  
もっともこちらの方は作者、受け手双方に一定の才能が必要であり、あまり一般的とは言えないが。
  
「ふるいけや かわずとびこむ みずのおと」
  
芭蕉がすでにこの概念を持っていたかどうかは知らないが、彼はこの簡単な叙景叙事によって、およそ生命を感じない静寂の世界の中で、思いがけない小動物の生命活動を知った驚きや畏敬の念を表している(らしい)。
 
少し極端な例を引いたがどちらが良し悪しということではない。
  
前者の体験でスイス旅行に代わる満足が得られるかというと、それは甚だ疑問だし、後者の句によって受け手が均一同等に感性を揺さぶられるかというとそれもあり得ない。さらには、後者の句とまったく同じシチュエーションをバーチャルリアリティーで体験しても、この17の音から得る感銘に勝ることはないだろう。
  
イメージを膨らませる。思い描く。外からの刺激や情報を敏感に感じ取る。そしてそれらを上手に表現し伝達する。そんなことを脈絡もなく綴ってきたが、どうやら先人たちの悩みのおさらいをしたに過ぎなかったようだ。貴重な紙面を一年間も無駄遣いしてしまったことを、読者並びにピーオーピーの皆さんにお詫び申し上げて筆を置きたい。
  
= ピー・オー・ピー「見本市展示会通信」’09年6月1日号掲載 =
  
展示会コミュニケーションサイト 「展コミ」
http://www.eventbiz.net/

想う、感じる、伝える。??

?嗅覚?
 
人は嗅覚によって時空を瞬間移動することがある。
 
ブルースト効果という言葉をご存知だろうか。街を歩いているときに突然、昔行った温泉町にいるような錯覚に陥ったり、アイスクリームを食べたときにふと別れた恋人を思い出したりすることがある。あれのことである。あれは匂いによる作用が大きいという。
 
人の脳は、匂いを感じる部位と感情や記憶をつかさどる部位が隣接していて、嗅覚と感情や記憶とはかなり密接な関係にあるらしい。強く心に残っている事象が、同じような匂いを嗅ぐことによって突然呼び覚まされるのだ。
 
嗅覚にはこの鋭敏さとは裏腹な一面もある。それは、同じ匂いにはすぐ慣れてしまうことだ。映画館やTVの受像機から画面に合わせた匂いを人工的に発生させようという研究があるが、なかなかうまくいかないようだ。このような装置で同じ匂いを連続したり、少し間をおいて度重ねたりする場合は、発生する匂いをどんどん強くしていかないと効果がなくなるらしい。
 
しかしながら、この匂いに慣れるということもわれわれの精神面に大きな作用をもたらしていると思える。
 
たとえば知人の家を訪ねたとき、生け花の清々しい香りが漂っていても、何かよそよそしく落ち着かない。ホテルに泊まるより遠くてもわが家のほうが休まるのは、慣れた枕だけではなく、意識しないほどに慣れ親しんだ家族の匂いが、われわれに安息をもたらすのではないだろうか。
 
「非日常」「出会いの空間」を演出しているわれわれにとっても、匂いのもたらす効果は大いに興味があるところだ。
    
 
= ピー・オー・ピー「見本市展示会通信」’09年5月1日号掲載 =
 
展示会コミュニケーションサイト 「展コミ」
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想う、感じる、伝える。??

?味覚?
 
生理学的に言うと、味覚には甘味、酸味、塩味、苦味、うま味の五つの基本味があり、それらの配分加減で人はいろいろな味を感じているとのことだが、われわれが一般的に味について語る場合は、純粋にこの生理学的な要素だけではなく、味覚以外の他の四つの感覚や記憶まで加えた総合的な「味わい」の話をしている。特に温度や香りはその大きな要素だ。
 
そういう意味では五感全体の感覚であり、さらには個人的嗜好の差も非常に大きく、これを他人に言葉で伝えるということは甚だ心もとない、と言うより正確に伝わることなどありえないという確信に近い。
 
だいたい「辛い」と言っても、唐辛子とわさびの辛さの違いを端的に表現する言葉が見つからない。唐辛子はホットで、わさびはクールな辛さ。…端的には程遠いが、短く言おうとすればせいぜいこんなところか。それも相手が唐辛子やわさびを食したことがあるという前提での表現だ。一度も食したことのない人に、わさびのあの微妙な味わいを説明しようなんて挑戦心は毛頭起こらない。
 
しかしながらおいしい物は、教えたい、食べさせたい、聞きたい、食べてみたい、が人の常。
 
『スープはとんこつ醤油、こくがあるのに油が口に残らなくて割りとあっさり、味は少し薄めかな。麺は中細のちぢれ。卵の練りこみ具合が良く、これにスープが絡んでのど越しは最高。量はおおよそ180gでまあ普通、食べ終わるまでのびない。チャーシューはもちろん自家製、たっぷり厚切りだが歯の先でほろりと解ける。他の具はメンマと焼き海苔だけ。余分なものは一切ない。そうそう、きざみネギは好みの量を聞いてくれる、俺はいつも大盛り』  これだけ説明しても味は伝わらない。
 
もう面倒くさいから食べさせに連れて行く。「どうだ、旨いだろ」「なんか中途半端ね、こってりかあっさりかハッキリしてほしいわ。スープも少し温いし。私あんまり好きじゃない。遠くまでわざわざ来たのに」
 
「!?」
 
私にとって至高のラーメンは、彼女にはカップ麺より少しまし程度なのである。こんな徒労がいつも繰り返される。
  
 
= ピー・オー・ピー「見本市展示会通信」’09年4月1日号掲載 =
 
展示会コミュニケーションサイト 「展コミ」
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想う、感じる、伝える。??

?第六感?

前章で背後の恐怖感のことに触れたが、背後で思いついた話をしてみたい。

静かな部屋のなかなどで突然背後に人の「気配」を感じることがある。そして実際に人がいることが多い。五感では解説しにくい感覚だがアレは何なのか。

われわれはこのような現象はすべて「第六感」か「超能力」で済ましているが、ちゃんと科学している人たちがいる。

それによれば、人は歩くたびに微弱な帯電と放電を繰り返していて、その度に電圧の変化を起こしている。そして人体には毛根のすぐ下あたりにその電圧差を感じ取れる器官があって、忍び寄る人の電圧差を「気配」として感じるらしい。

実験では、10人中7人が人工的に起こした人と同レベルの電圧差を感じ取り、「気配」と同じような感覚を感じたとのことだ。

犬はもっと凄い。飼い犬が主人の帰宅を遠くから察知して、玄関に出迎えに行く話しは良く聞くが、これも人の「気配」を感じ取っているのだという。ただ犬の場合は人の発生する電圧差ではなく、電磁波を感じ取るという。人は、先に説明した電圧差の発生と同時に微弱な電磁波も発生する。さらに、この電磁波には人によってわずかながらパターンの違いがあって、犬はこのパターンの違いまで感じ分けて、主人の気配を区別しているという。

ホンマカイナ?と思わないでもないが、一部の動物は地震や雷が発生する電磁波に反応することが確認されているとのことだ。
  
 
= ピー・オー・ピー「見本市展示会通信」’09年3月1日号掲載 =
 
展示会コミュニケーションサイト 「展コミ」
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想う、感じる、伝える。??

?聴覚?

ずいぶん以前に、ある遊具メーカーと共同で音だけのお化け屋敷にトライしたことがある。一時は結構流行ったが今ではあまり見かけなくなってしまった。営業効率の問題もあるのか?

室内はストーリーに合わせたそれらしき内装が施してあるが、客が入場し着席すると一転暗闇となってヘッドホンからの音だけでストーリーが展開する。

背後に忍び寄る怪人の足音。息遣いが耳にかかるほどの近さで低く呟く。振り落とされる凶器の風切り音。特に背中側は人間とって一番無防備であり恐怖は倍化するらしい。人はある感覚機能が損なわれたり劣化したりすると、他の感覚が鋭くなるということは良く聞く。音以外の情報がないと神経が集中して実に臨場感が溢れる。空間の広がりや、対象との距離感まで精度高く感じ取れる。

これもかなり以前のことだが、ある実験的なイベントの話を聞いたことがある。真っ暗闇の空間の中に簡単な迷路(順路)をつくり、来場者にはまったく視覚を奪われた状態で何とか出口にたどり着いてもらうという企画だ。途中には軽飲食のコーナーも在ったようだ。

視覚を遮断して、聴覚、触覚、嗅覚、味覚だけで課題をクリアするのだが、ルールがひとつだけあって、グループでの纏まった参加は禁止される。連れ立ってきた人はばらばらにされて時間差で入場する。つまり自分の近辺は見ず知らずの人ばかりという状態である。

手探りで壁を伝い、前後の人の気配を窺い、声を掛け合って出口を目指すのだが、このような状況下では、すごい速さでコミュニケーションが進むらしい。すぐに前後何人かで手を繋ぎあって協力するようになる。顔も見えない同士が自己紹介まで済ませて、ゴールに至る頃には幾つもの濃密なグループが生まれるとのことだった。

ヨーロッパでは数年前から「暗闇レストラン」なるものがあるらしいが、最近日本でも聞くようになった。私も一度トライしてみたいと思う。

聴覚の入り口から入ったが、出口では視覚と味覚になってしまったようだ。
  
 
= ピー・オー・ピー「見本市展示会通信」’09年2月1日号掲載 =
 
展示会コミュニケーションサイト 「展コミ」
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想う、感じる、伝える。??

?視覚?
 
西洋には古くから、視覚と聴覚は五感のなかでも優れているという考えがあって、それは対象から離れても成立するからだというようなことがネット上に在った。
 
五感の優劣を議論する気はないが、確かに視覚や聴覚は実体感の場を離れても記憶に残りやすく、またそれを表現したり伝えたりする手段が多くある。なかでも視覚は一番確実性の高い感覚と思われる。が、これが意外と当てにならない。実は人はかなりいい加減に物を見たり記憶したりしているのではないか。
 
オフィスの窓からの見慣れた町並み。毎日見続けて目に焼き付いているはずが、ある日突然この一角が再開発で取り壊される。すると昨日までの風景が明瞭に思い出せなくて戸惑う。こんな経験は皆さんもないでしょうか。
 
興味や、思い入れ、集中力などによって見え方も大きく異なってくる。
 
逃がした魚が大きいのは誰でも共通のようだが、ある事件の目撃者の一人は「犯人は赤い服を着ていた」と言い、別の一人は「いや青い服だった」なんてことは良くある。
 
さらには、感情移入と時の経過によって変質する。
 
二人で並んで見る日本海に沈む夕日。その瞬間は互いに美しいと思っても、片や、今隣に居るご主人とは違う昔の恋人と散歩した夕焼けの浜辺を思い出して、ひとり気まずい思いになる人もあれば、片やこの夕間詰めの絶好の潮時になぜ釣竿を持っていないのだろうと悔やむ人もいる。
 
時が経って、たまたま二人がこの夕日の話題に及んでも、美しい夕日の風景ではなく「昔の恋人」と、「大きな獲物」…互いにイメージはバラバラ。本当のところではかみ合っていない。
  
 
= ピー・オー・ピー「見本市展示会通信」’09年1月1日号掲載 =
 
展示会コミュニケーションサイト 「展コミ」
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想う、感じる、伝える。??

?五感?
 
われわれは俗に「五感」としているが、専門的には七つあるいは九つ、さらに細かく分類すると二十余りになるそうだ。その話は別の人にお願いするとして、ここでは「五感」で進めたい。
 
「感覚」はあくまでも各個人の主観であって、それを他の人にまったく同じものとして理解してもらう術など本来ない。人間の共同生活における知恵として、赤い色とか、高い音、甘い、腐った臭い、痛いなどのように、感覚を大まかに共通認識できる言葉を作り、さらにそれにさまざまな修飾を重ねてその精度を上げる努力をしている。
 
当然感覚には感受性や嗜好性といった個人差があり、経験量の差もある。これらが人の相互理解の触媒になったり壁になったりしていることは既述したが、この差があるからこそ人生がイロイロと面白いとも言える。
 
「旨い」は共通認識の言葉であっても「旨い肉」は共通認識になりえない。肉の嫌いな人には「旨い肉」と言う感覚が存在しない。これにはどんな修飾を重ねて説明しても無駄である。
 
では、この「旨い肉」の感覚をもつ人ともたない人の間にいつも大きな壁があるかと言えば必ずしもそうではない。嗜好が違うにも拘らず定期的にグルメ探訪を重ねる仲良しグループや、「ウチの晩御飯には肉が出ない」と奥さんをなじりつつも、長年仲睦まじく暮らしている夫婦もよくある話だ。
 
ちなみに私の愚妻は「高野豆腐」を旨く感じないようで、ほとんど食卓には上らない…。
  
 
= ピー・オー・ピー「見本市展示会通信」’08年12月1日号掲載 =
 
展示会コミュニケーションサイト 「展コミ」
http://www.eventbiz.net/

想う、感じる、伝える。??

会社や組織運営において、その目的達成の為に構成員全員がイメージを共有することは不可欠なことである。イメージの共有無くして各部門間の有機的連携や、課題克服の効率良い展開は有り得ない。
 
多様な個性を持つ組織の構成員、言い換えれば千差万別のコンディションの人たちに、一様に近いイメージを促すには、それなりの手段と時間を考慮しなければならない。
 
急ぐあまりに理解を得ないままリーダーが理念や戦略を強引に押し付ければ、構成員は戸惑うばかりで自分が何をすべきかの発想や行動につながらない。組織は硬直し自律性を失い、有機的連携や効率的展開は望むべくもなく、個々の行動について個別具体的で微細な指示をしなければ動かなくなる。
 
そればかりか、宝の山とも言うべき個性豊かな人たちの、柔軟で斬新な発想を吸い上げる仕組みも構築出来ず、宝の持ち腐れとなる。当然、直言できるような雰囲気もなく、リーダーは自らを客観的に振り返る機会を失い、やがて孤立して行く。
  
ひとつの目標に向けたイメージの共有と総合力の発揮。そしていつも新しいアイディアや課題克服の提案が湧き上がる柔軟な仕組み。・・・先日のジェトロ・エキスポ・イベント・サロンで、サラゴサ万博の日本館展示/広報・催事プロデューサーを務められた(株)SD代表取締役の澤田裕二氏も、万博プロジェクト推進の重要要素としての「チームワーク」の中で同じようなお話をされていた。
 
本題から少し離れて何か大仰な話になってしまったが、自戒の章としたい。
 
  
= ピー・オー・ピー「見本市展示会通信」’08年11月1日号掲載 =
 

想う、感じる、伝える。??

伝えないことが想いを膨らませる
 
出来るだけ多くの情報を与えて、同じイメージに誘導する場合とは逆に、情報を極力少なくして自由で奔放なイメージを促す場合もある。
 
先日、アーティストの日比野克彦さんとお話しする機会があった。
 
日比野さんは、ワークショップの時や、他の人とコラボする場合等では、最初はあえて自分のイメージを強く伝えないで抑えておくと言う。言葉で伝えるにしろ、スケッチを見せるにしろ、受け取り手が入り込む隙間と言うか、相手のイメージを膨らませる余地を残しておく。
 
そうすることで相手もいろんなアイディアを出しやすくなるし、乗ってくる。意志の疎通も進み、相乗的に良い作業が展開できると言う。
 
我々も似たようなことは良くやっている。
 
ある案件の最初の企画会議。
プランナーやデザイナーと言う専門職だけでなく、比較的畑違いの人も交えて大人数でブレーンストーミングを行う。最低限の与件だけを示して、参加者には様々な角度から自由なアイディアを出して貰う。
  
会議のリーダー格の人は、自身ある程度の構想とか方向感を持って臨むわけだが、最初は出来るだけ抑える。話は取りとめもなく広がるが収拾の付け方は後で考える。これがルールである。
  
最初にリーダー格が自分の意見を強く示せば、会議の流れは当然そちらに傾く。これでは会議は踊りも弾みもしない。単なる追認会議で終了。このような会議が続くと「ムラヤマさん最近マンネリじゃない?」となる。
 

= ピー・オー・ピー「見本市展示会通信」 10月1日号掲載(同紙1日号にて毎月連載中) =

想う、感じる、伝える。??

ディスプレイ業で(2)
 
ほとんどの案件が、全く新しい空間やモノを創り出す。極端に言えばまだ見たことの無いモノを創り上げる。しかも図面では全てを表記できない。図面だけでは全てが読みきれない。図面の裏に潜むお客様の想いや、図面作成までに累積し確認された微妙なニュアンスまでを含めて製作物として表現しなければならない。
 
ディスプレイ業とは実に危うい商売であるが、逆に言えばこれをやるのが業界の存在感であり、面白味である。
また同じ図面からでも各社によって最終成果物に微妙な、時には大きな差が出るが、その差が各社それぞれの特徴と信頼感を形成している。その差の原因は、当然各社の歴史を経て蓄積したナレッジのレベルに加えて、打ち合わせの精度に因る事が大きい。
 
図面の裏に潜む情報の補完と、お客様や担当者間のイメージの共有と確認のために、図面以外にも様々なモノを準備する。当然予算との兼ね合いを見ながらになるが、イメージスケッチ、素材サンプルはもとより、時には模型やCG、類似施設や制作物の取材VTR等々。
 
密度の高い打ち合わせを繰り返し全てが完璧に進行、全員が共通イメージを持って完成へ向けて突き進む。後は現場作業を待つだけとなる。(毎回そうなって欲しい)
 
そして現場当日。いくら待ってもあるパートの製作物が来ない。連絡すると「アレッ、今日でしたか?明日って聞いていますが」なんてことも稀にある。
 
冷や汗が一筋背中を落ちていく。・・・思い当たりませんか?
 
 
= ピー・オー・ピー「見本市展示会通信」 9月1日号掲載(同紙1日号にて毎月連載中) =

想う、感じる、伝える。??

ディスプレイ業で(1)
 
「イメージを形に」 これがディスプレイ業のビジネスであるが、ひとつのイメージから最終的にはリアルな空間や造形物を創り出さなければならない。
 
その間には、多くの人たちと無数の伝達作業が介在する。通常の場合、まずお客様、そして営業、プロデューサー、プランナー、デザイナー、ディレクター、専門協力企業の人、実際にモノを作る製作者、現場作業者。ほとんどの場合、これらの機能の人たちが分担して一つの案件を仕上げる。
時にはプロジェクトチームを編成して大人数で取り組む。係わる人全員が完成させるべき空間や造形物のイメージを共有しなければならないのである。
 
ここで最も重要なのが伝達であるが、これが前に言ったように非常に不確実なものである。
お客様の要求に出来るだけ近く、いやそれ以上のパフォーマンスを目指して、数多くの打ち合わせ(=意思や情報の伝達)が行われる。各担当間や必要に応じて全体で。
 
この作業精度がどこかで極端に落ち込むと、全体が大混乱に陥り、打ち合わせのやり直しや再確認作業が発生し、効率の低下や余分なコストが必要になる。儲からないどころか作品の評価も悪く、最悪の場合は物件にいわゆる「穴が開く」ことになる。
 
こうなっては、お客様の満足どころか企業の信用もガタ落ちとなってしまう。
 
 
= ピー・オー・ピー「見本市展示会通信」 8月1日号掲載(同紙1日号にて毎月連載中) =

想う、感じる、伝える。??

あっという間に秋風を感じる、コートの季節となってしまった。
今年投稿したシリーズものの記事から、その第一回目をご紹介する。
 
 
プロローグ
 
五感で感じたことや自分でイメージしたものを、他人に正確に伝えるのは非常に難しいことである。「百聞は一見にしかず」とあるように、どんな説明を受けるより実体験に勝るものはない。
  
ある人が旅先で見た「日本海に沈む夕日」。

これをいくら言葉巧みに表現しても、聞く人の描くイメージは様々である。同じものを見たことのある人、似たものを見たことのある人、全く無い人、それぞれ自分の経験と知識の中から組合せて最も近いと思う光景をイメージするだろうが、そこには大きな差が出てくる。

まだ「夕日」のように、視覚的なものについては、認識の共通する言葉も多く比較的伝えやすい。より確実には絵や写真と言った手段も取れるが、これが味覚や嗅覚、はたまた聴覚、触覚となると、言葉で伝えることはますます困難になる。実体験以外には補完する手段もほとんど無い。
 
私が「甘さを抑えた美味しいケーキだ」と言っても、実際に食べさせる以外にその正確な味が伝わるはずも無い。出来るだけ多くの言葉を用いて説明するにしても、最終的にはその人の体験の中から私の言う美味しさをイメージして貰うしかない。
 
このように、同一体験の出来ない感覚的なものを他人に伝える確実性のレベルは、単に送り手の技量だけでなく、受け手側のコンディションや感性、また双方の経験や知識の共通性等に大きく依存することになる。

私たちは、日常生活やビジネスにおいて、自分の感覚を他人に伝えたり、逆に自分のものとしたり、また時には何人かの集団で同じイメージを共有しなければならないことが良くあるが、実態はこのように不確実で頼りないものなのである。


= ピー・オー・ピー「見本市展示会通信」 7月1日号掲載(同紙1日号にて毎月連載中) =

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